2011年4月26日火曜日

「朝日、オリコン、裁判所」ともあろうものが?

――朝日新聞、AERAを経て、2003年に独立したジャーナリストの烏賀陽弘道。音楽や映画業界のみならず、さまざまなジャンルを追い続け、彼の独自の視点と緻密な取材による記事は一般読者から高い評価を得ていた。

【写真:猿回しの仕事がなくなったという話を取材している烏賀陽さん】

 しかしフリーになった3年目に、“書けないジャーナリスト”になってしまった――。多くの“烏賀陽ファン”は、彼の記事を楽しみにしていたのに。

 中学生のころから「文章を書いて、メシが食えたらいいなあ」と思っていました。好きなことといえば音楽を聞くこと、自転車に乗ること、そして文章を書くこと。小説を書いて作家として生きていけるなんて思ってもいませんでした。インターネットどころか携帯電話もない時代だから「会社に就職して文章を書いて働ける仕事」というと新聞記者くらいしか思いつかなかった。今ならブロガー少年にでもなってたんだろうなあ(笑)。

 学校の帰りに本屋に寄って、本多勝一、立花隆、柳田邦夫といったジャーナリストたちの作品を貪り食うように読んでいました。「この世界はこんなに深い奥行きがあるのか」「そんな世界を見て、書ける。ジャーナリストってすごいな」などと思っていました。で、身の程知らずにも「ジャーナリストになりたい」という願うようになった。いま振り返ると、世間知らずなボンボンのたわごとなのですが(笑)。

 大学を卒業するとき、普通に「就職活動」をして朝日新聞社に入社しました。当時の夢は「海外報道」でしたが、最初に配属されたのは三重県の津支局。失礼ながら当時はコンビニもない田舎で、取材活動には英語の「エ」の字もいらない(笑)。ボクは当時23歳。初めてプロとして取材をして記事を書き、がくぜんとしました。読者だったときは「こんな記事、読むに値しない」と思っていた地方版のベタ記事すら書けない。話が聞けない。記事が書けない。満足に写真すら撮れない――。自分は職業人として“無”であると痛感させられましたね。海外報道なんて夢のまた夢です。しばらくはそのことは忘れようと決めた。そして記者としての初歩スキルを習得することに全力投球しました。

●26歳、リクルート事件取材班のメンバーに

 入社3年目、26歳(1989年)のときの話です。愛知県の岡崎支局にいました。なぜか東京本社のリクルート事件取材班のメンバーに選ばれ、3カ月ほど東京で取材することになりました。「リクルートコスモスの未公開株を受けとった」と疑惑を受けた藤波孝生さん(元官房長官。故人)の選挙区は三重県。ボクの初任地が三重県だったから、取材班のメンバーとして呼ばれたんじゃないかな。

 「取材班」というとカッコイイんですが、仕事は藤波さんを24時間尾行?監視すること(笑)。彼が起訴されるまでの約3カ月、記事も書かずにただただ後ろにくっついていただけ。あまり知力のいらない仕事ですが、記者としての視野を少し広げることができたんじゃないかと思います。なぜかというと、それまで三重県の津市と愛知県の岡崎市しか知らなかったボクが、いきなり東京で中央政界を取材することになったから。永田町で国会議員を取材している記者はたくさんいますが、その議員の選挙区を歩いて取材した人は案外少ない。逆に、地方で選挙区を担当している記者は支局にたくさんいますが、その議員が永田町で何をしているのかを知る記者は案外いない。1人の記者が複数の現場を取材して「あ、これは違う」「ここは同じか」と感じることはとても大切だと今でも思います。

 藤波さんが起訴されたことで、ほとんどのメディアは「藤波さんは次の選挙で落選する」と予測していました。しかしボクは「絶対に当選する」と確信していた。なぜなら、三重県の人をよく知っていたから。人柄が穏やかで、長期の人間関係を大切する三重県で「汚職議員だから」と藤波さんに背を向ける人はほとんどいなかった。彼は自民党は離党しましたが、1990年に行われた総選挙で当選します。東京の大手メディアは「不思議だ」「信じられない」と言っていましたが、東京と三重の両方を取材していたボクにとっては、むしろ当たり前の結果でした。

●会社はいつでも辞められる理論

 名古屋本社の社会部(入社5年目、28歳)在籍中に「新聞記事を書くのは、もういいな」という感じがし始めました。満腹感っていう感じかな。新聞記事というのは、基本的に誰が書いても同じようなもの。誰が書いても同じになるようにテーマの選び方や文体を管理している。誰がやっても最終製品が同じになるような組織運営がされている。「もっと自分でないと書けない記事はないだろうか」「ボクだからこそこの記事が存在した」と模索し始めました。しかし朝日新聞社はそんなことを記者に求めていない。それが分かってきました。

 同業他社への転職やフリーランスになることも考えました。精神的にも肉体的にも疲れていたので「母校の大学院にでも行こう」と思っていたら、いきなり上司が雑誌『AERA』へ行けと言い出した。「まあ全国紙に就職したんだし、一度は東京で働かないと損だろう」とちょっと退社を先延ばしにした。「『AERA』で働いて、ちょっと様子を見るか。つまらなかったら、その時点で会社を辞めればいいや」と思っていました。「会社はいつでも辞められる理論」ですね(笑)。

 アエラ編集部に配属されると、驚いたことに「何を取材してもいい」と言われました。好きなことを取材をさせてもらって、好きなように書かせてもらえる。そして実際に「烏賀陽がいなければこの記事は存在しなかった」という記事を書かせてくれたんです。新聞で書いていたときには「これは面白いけど書けないネタ」の連続でしたが、アエラ編集部に来て、その「書けない領域」が消えました。例えば三重県警を担当したいたときには、火事だ汚職だ爆発だと警察記事ばかり書いていました。それは自分が選んだ仕事ではなくて、仕事がボクを選んだだけ。「オレは音楽のことを書けば、面白い記事を書けるのに」という自信があっても、三重県に音楽のネタはなかった(笑)。

 ところが東京に来てみると、メジャー、インディーズ問わずレコード会社は山のようにあるし、コンサートもたくさんある。日本のミュージシャンだけではなく、外国からもたくさんやって来る。ネタがたくさんあるので毎日「アレも書きます、コレも書きます」といった感じ(笑)。

 「烏賀陽ではないと書けない記事」といっても、案外簡単なんです。例えば「新宿や上野でドラッグが簡単に買える」ということを聞いたので、潜入取材を試みました。散髪をせずに、無精ヒゲをはやして、汚い服装で、実際に売人に会ってドラッグを買いに行きました。するとマリファナが簡単に買えてしまう。いや、買う寸前で止めましたけど(笑)。覚せい剤、コカイン、ヘロイン、LSD……まるで「ドラッグ天国」のように買えるわけですよ。ボクがかつていたニューヨークよりも東京の方が、ドラッグの種類が多く、簡単に手に入る――というルポを書きました。この記事の反響はとても大きくて、海外メディアからもボクのところに取材に来ました。

 東京の繁華街の真ん中でドラッグが堂々と売られていることを、なぜ大手企業メディアは報道しないのか。答えは簡単で、そういうネタを担当する新聞記者は、それがネタだという発想がもうない。彼らはかつてのボクのように、「警察担当」として上野なり新宿警察署のクラブに詰めている。売人が逮捕され、警察が発表すれば、彼らは「警察のアクション」として書くかもしれない。しかし記者クラブから数百メートルしか離れていないとこでドラッグが買えるという「警察は動かないが、日常的な現実として存在する事実」は、彼らには記事のネタではない。そういう取材手法があることを記者の動作として認識してないんです。

 ボクがしたことは「政府の秘密文書を入手する」といった難易度の高い作業ではなく、変装して公園に行っただけ。これは発想の問題です。「人と違う発想をするかどうか」――たったそれだけの違いが、記事の違いになる。そんな簡単なことですら、新聞記者はもうできない。発想がオリジナルな記者はいるかもしれませんが、少なくとも紙面には表れない。毎日、いつかどこかで見た記事が紙面を埋め、読者はうんざりする。記者にも読者にも不幸なことです。

●35?36歳のとき、念願の海外勤務

 35?36歳にかけては、アエラの駐在記者としてニューヨークに派遣されていました。学生のころに「新聞記者で海外勤務、署名記事を書き送る」という夢を見ていましたのですから、図らずも週刊誌記者でそれが実現したわけです。

 ニューヨークでも、さまざまなテーマを取材しました。1998年の着任早々、円ドル相場で戦後最大のドル下落が起きたので、記事を書きました。それまで国際通貨のことなど書いたことがないのに、着任早々いきなり英語で取材をして、ベテラン金融記者のような顔をして書くわけです。なんとも罪深いことですが(笑)。もちろん読者はそんな言い訳は認めてくれません。ベテランだろうとルーキーだろうと読者には関係がない。また東京から「マイケルジョーダンが引退するから書け」と命令されれば、取材して書いたりもしました。

 もちろん大半は自分で企画した記事でした。例えば、当時はITベンチャーブームだったので、なぜ米国にはたくさんのITビジネスが生まれ、日本には育たないのか、という内容の記事。シリコンバレーやシアトルを訪ねてベンチャー業界をインタビューして回りました。アマゾンやスターバックスの社長も会いましたよ。またベンチャー企業に資金を提供するベンチャーキャピタルも取材しました。当時の日本でベンチャーキャピタルはまだ黎明期だったので、彼らがどのように資金を集め、どのようにして投資しているのか、内容を書きました。

 「この記事はボクでないと書けない。そんな記事を書こう」「そうでないとボクが書く意味がない。他の誰かがやればいい」と自分に課していた。読者からは「こんな記事は、ほかで読んだことがない」といった手紙やメールをたくさんもらった。そんな瞬間がいちばん記者冥利に尽きましたね。

●アエラという氷山が分離した

 新聞記者の時代とは違って、アエラ在籍中は「自分がやりたいこと(ほぼイコール記号)仕事」という関係になっていました。もちろん「なんでオレがこんな取材をせにゃあかんのじゃ」という記事も必死で取材しましたよ。「相撲協会の内紛」とかね(笑)。会社からサラリーをもらっているんだからそれは当然。とはいえ「自分が選ぶ仕事」>「会社がボクにやらせる仕事」だったから、サラリーマンとしては幸せでした。

 ただ30代後半になって、これ以上は前に進めないという壁に突き当たりました。それは「取材記者からデスクワークの管理職にならなければいけない」ということ。現場の記者になりたくてこの仕事を選んだのに、管理職になると1日中会社に座って他人の原稿をチェックしたり、勤務時間の計算をしなければいけない。やっと自分のやりたい仕事ができるスキルが身に付いたと思ったのに「ええっ、もう管理職?」「もう一丁上がり?」ですよ。

 またアエラの編集方針もずいぶん変わりました。雑誌は生き物なので、編集部にいる記者や編集者によって自然にカラーができるものです。が、悪くするとそれが固まってしまう。アエラでは「働く30歳代女性」を掲載したら、それがやたらと売れた。売れるとまたやりたくなる。で、似たようなテーマばかり反復する。最初は「東京23区でもっとも子育てにやさしいのはどこか」とか、ちゃんと取材していました。しかし「収納カリスマ主婦に聞くウルトラ収納術」みたいな“まんま主婦雑誌やんけ記事”が増えてきた(笑)。雑誌のページは一定ですから、女性向けの記事が増えれば他は圧迫される。ネタが通らなくなる。自分が取材した記事が掲載されない。もう1999年ごろの話ですけどね。南極にいるボクはそのままだけど、アエラという氷山が分離して、どんどん遠くなっていくような感じでしたね(笑)。

●40歳で、朝日新聞を退職

 アエラ編集部には28歳から38歳までの10年間いました。そこを出るとき、もう新聞記者に戻るという気持ちはなかったですね。週刊誌記者として充実した取材を10年続けて、いかに新聞が無味乾燥でオリジナリティがないということが分かったから。記者クラブはもちろん関係があるのですが、それ以上に「ボクでなければ書けない」ネタを載せる仕組みが社内にない。そんな時間は与えられないし、上司も評価しない。明日になれば発表される警察の特ダネだったら、ボクより上手な人はたくさんいる。そんな世界に戻るのは自分の人生にとってロスだと思っていました。

 アエラ編集部を離れ、次は『ぱそ』という初心者向けのPC雑誌で、編集者の仕事に携わることになりました。会社の命令です。編集者という仕事も初めて、PC雑誌も初めて15年間積み上げてきた記者としての経験や人脈は、まったく無用の長物……。何の役にも立ちませんでしたね。

 会社員としての人生を送るにあたって「自分のやりたいこと」と「会社がボクにやらせたいこと」――この比率が50対50なら、幸福だと考えることにしていました。しかし、PC雑誌の編集者になった時点でこの「臨界点」を超えてしまった。つまり自分のやりたいことよりも、会社がボクにやらせたいことの比率が大きく上回り、針が振り切れてとまった。

 そして40歳のときに、朝日新聞社を辞めました。会社を辞めることに対する不安ですか? 不安どころか、安心材料なんてひとつもない(笑)。朝日新聞社の給与は手取りで毎月40万以上あったのが、それがゼロなんだから。ボクは人一倍臆病なんですよ(笑)。いつも「本当にフリーランスでやっていけるのか?」と自問自答するんですが、結論はいつも「いや、食っていけるはずがないぞ」になってしまう(笑)。

 会社を辞めてるとき「自分は何をするべきなのか」はよく分かりませんでした。しかし「何をすべきではないか」は分かっていた。それは「朝日新聞社に残っていること」。あのまま会社に居続けては、ボクは間違いなく職業人としてダメになっていたでしょうね。

 とりあえず書籍の依頼が2?3あったので、本を書くことに自分の力を注いでいこうと決めました。「本を出して、反応を見てみよう。今から5年経ってダメだったら、まあまたそのときに考えりゃいいや」と思っていました。

●43歳、オリコンから訴えられる

―― 2003年、烏賀陽は朝日新聞社を辞めた。しかし3年後、ある「事件」に巻き込まれることとなる。月刊誌『サイゾー』(2006年4月号)に掲載された「ジャニーズはVIP待遇!? オリコンとジャニーズの密月関係」という記事で、烏賀陽はサイゾー編集部から電話取材を受けた。しかしその掲載された烏賀陽名義の「コメント」に対し、オリコンは事実無根の名誉毀損として出版社やライターを訴えずに、烏賀陽のみを提訴したのだ。

 「訴状」が届いて開封した瞬間、すべてが吹き飛んでしまいましたね。その日から違う人生に入ってしまう、ようなものです。裁判対策で仕事ができない。収入が減って、徐々に追い詰められていくんですよ。2007年から2008年の年収は120万円。「もしかしたら自分のフリーランスのキャリアが終わってしまうかもしれない」という恐怖と戦っていました。

 オリコンは「烏賀陽は長年にわたって虚偽に満ちた誹謗中傷を繰り広げた」と主張していました。屈服すれば、オリコンの言い分を認めるようなもの。ボクが20年間積み上げてきた職業人生がそこで終わってしまう。だから崖っぷちに立たされようとも、逃げるわけにはいかなかった。

 オリコンのように嫌がらせ目的だろうと、自分たちにとって都合の悪い情報が流れるのを防ぐ目的だろうと、民事訴訟は誰にでも起こせます。そして訴えられた側は、弁護士を雇って対抗しなければならない。弁護士費用は着手金だけでも100万ほどかかる。もしそれが支払えなかったら、法廷で負けてしまう。紙切れ1枚を裁判所に持っていけば、誰でも裁判を起こせる。そんな簡単な手続きで、相手にさまざまな苦痛を与えることができる日本の民事訴訟は、とても危険なシステムになってしまったのではないでしょうか。

 裁判で争っているとき、多くの人は「そんなバカな訴訟はすぐに裁判所が棄却するでしょう」と言いました。ボクも「裁判所は弱い者の権利を守る砦」と思っていた。が、甘かったですね。東京地裁は「烏賀陽に名誉毀損の責任がある」という判決を下しました。もしメディアの取材に応じたことで、名誉毀損の責任を負わされれば、誰もマスメディアを通して発言なんかしない。東京地裁の判決は「普通の市民が意見を発言する権利」を奪ったようなものでした。

――オリコンは2009年7月、東京高裁に「請求放棄」を表明した。請求放棄とは「自分の訴えに理由がないこと」を認める手続き。つまりオリコンは一方的に敗北を宣言し、勝手に自滅した。

 33カ月間にも渡ってボクを苦しめたこの裁判は、オリコンの“完敗”で終わった。「こんなみっともない負け方をするくらいなら、何のために提訴したのか?」と考えると、ものすごく腹が立ちますね。

 しかしこの裁判を経験し、いろいろなことを学びました。都合の悪い意見や批判を封じるための嫌がらせ提訴のことを、欧米では「SLAPP」(strategic LAWSUIT against public participation)と言います。米国(28州?地域)ではその被害を防ぐ法律があります。しかし日本には米国のような反SLAPP法が存在しません。「嫌がらせ提訴をこのまま野放し状態にしておいていいのか」――ボクはそのことに注目していて、近い将来、SLAPPの現状や問題などを本にまとめるつもりです。「インターネットと言論の自由」も次の本のテーマとして待っています。

 オリコン裁判で失ったものはたくさんあるのですが、その一方で得たものもあります。その1つは「烏賀陽さん、何か力になりますよ」「烏賀陽さん、無償でいいから動きます」という友人がたくさんいてくれたこと。カンパを集めてくれたり、裁判に関するWebサイトを立ち上げてくれたり。「なぜこんなにたくさんの人が助けてくれるのかな」とよく考えました。自分はそんなに立派な人間じゃない。きっとこれまで地道に仕事をしてきたからだろう……それくらいしか思いつきませんでした。

 思い返せば、朝日新聞社を辞めたときもそうでした。「会社、辞めたんだって? 生活大変だろうから、ちょっと手伝ってくれない?」と声をかけてくれる人がたくさんいました。ボクは敵をつくりたいとは決して思いませんが、この仕事をしていると人を批判することは避けられない。なので必然的に恨みを買ってしまうんです。でも同時に、助けてくれる人もできる。ボクは人をだましたり、利用したり、裏切ったりは絶対にしなかった。ひょっとしたらそのおかげで、土壇場に追い込まれようとも、孤独にならなかったのかもしれません。(本文?敬称略)【土肥義則,Business Media 誠】


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引用元:くろネコ RMT

2011年4月20日水曜日

東京造形大学で「造形現代芸術家展」?「セロテープアート」も登場 /東京

 東京造形大学(八王子市宇津貫町)で現在、同大学を卒業した5人の作家による展覧会「造形現代芸術家展」が行われている。会場は同大学附属横山記念マンズー美術館。(八王子経済新聞)

 同展は卒業後も創作活動を続けている作家を紹介する目的で行われており、今回で6回目。30代の作家が中心となって行われており、「在学生に彼らの活動を知ってもらうと同時に、在学生の意欲の喚起を促すことが目的」と同館館長も務める同大教授の岡村多佳夫さん。

 今回は、1997年から1年間、雑誌「広告批評」の表紙デザインを担当していた大槻あかねさんや東京都が行っている公募展「トーキョーワンダーウォール」で2005年に大賞を受賞した宮崎勇次郎さん、「セロテープアート」の第一人者としてセロハンテープの大手メーカー「ニチバン」(文京区)とタイアップし活躍する瀬畑亮さんなどによる個性的な作品を展示している。

 テーマは「パンタヘドロン」。5面体を意味するこの言葉に、表現手法も素材も異なる作家の姿を表した。「5人の作家たちのさまざまな芸術表現方法の違いを感じ取っていただければ、今回の展覧会コンセプトが理解していただけるはず」と岡村さん。評判は上々で「学内外問わず、開催初日より多くの方にご来場いただいている」という。

 開館時間は10時?16時30分。日曜?祝日休館。入館無料。今月24日まで。

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東京造形大学

引用元:アトランティカ rmt

2011年4月9日土曜日

W杯準優勝のオランダ代表が凱旋パレード、大歓声の一方でウェブ主審への非難も

 ワールドカップ(W杯)?南アフリカ大会で準優勝したオランダ代表は13日、同国首都アムステルダムで凱旋(がいせん)パレードを行った。

 運河をボートで進むというオランダらしい形で行われたパレードには、チームカラーであるオレンジ色の衣服や装飾品を身に着けた多くのファンが駆け付け、「お帰り」「おめでとう」といった大歓声に包まれた。11日に行われた決勝ではスペイン相手に延長戦の末0?1で涙をのんだ選手たちも、温かい出迎えを前にようやく笑顔が戻った。

 一方、決勝でオランダに10枚のイエローカードを提示し、ヨン?ハイティンハを退場処分に追いやったハワード?ウェブ主審に対する非難は強烈で、「やつを探し出して捕まえろ!」とのメッセージがプリントされたTシャツを着用するファンも多く見られ、「やつはオランダの最大の敵だ!」といった声も上がった。

 なお準優勝セレモニーでは、今大会をもって代表からの引退を表明している主将のファン?ブロンクホルストが司会を務め、大会のチーム得点王のウェスレイ?スナイデルが乾杯の音頭を取った。一方、笑顔が絶えなかった選手とは対照的に、ベルト?ファン?マルワイク監督は真剣な面持ちを最後まで崩さなかった。

(C)MARCA.COM

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サッカーワールドカップ(スポーツナビ+)


引用元:RMT